「都合の良い事実」だけを集めて差別を正当化する人たちへ
- 川西ケンジ

- 3 分前
- 読了時間: 9分

近年、SNS上では外国人に関する投稿を目にする機会が急激に増えている。外国人による犯罪、外国人による迷惑行為、海外の治安問題、海外のスラム街、ゴミが散乱した街並みなどが取り上げられ、その画像や映像と共に「だから外国人受け入れは危険だ」「だから多文化共生は失敗する」「これが外国人を増やした未来の日本だ」といった言葉が添えられることも珍しくない。もちろん、外国人による犯罪や迷惑行為が存在しないと言うつもりはない。実際に法律を守らない外国人もいるし、地域社会に悪影響を与える外国人も存在する。しかし、私が問題だと考えているのは、その事実そのものではない。問題なのは、それらの事実がどのように利用されているのかという点である。
SNS上で繰り返し見られる多くの投稿は、一見すると社会問題について議論しているように見える。しかし、実際には議論ではなく、自らが既に持っている結論を正当化するための材料集めになっていることが少なくない。「外国人は問題だ」「外国人を受け入れるべきではない」「多文化共生は間違っている」という結論が最初から存在し、その結論を補強するために都合の良い事例だけが集められているのである。そのため、外国人による犯罪は何度も拡散される一方で、外国人が地域社会に貢献した事例や、日本人の命を救った事例、人命救助や災害支援に関する事例などはほとんど語られない。存在しないからではない。結論に都合が悪いからである。
同じ構図は犯罪以外の場面でも見られる。海外のゴミだらけの街並みの写真を掲載し、「これが外国人を受け入れ続けた未来の日本だ」と主張する投稿は珍しくない。しかし、日本国内にもゴミ問題を抱える地域は存在する。繁華街や住宅街で不法投棄が問題になることもあれば、日本人が中心となって発生している環境問題もある。それにもかかわらず、それらの事例を見て「日本人という存在に問題がある」と結論づける人はほとんどいない。また、外国人が歩道やコンビニ前で集まって会話している写真を見て「マナーが悪い」と批判する人がいる一方で、日本人の若者が同じような行動を取っている光景についてはほとんど話題にならない。観光客の大型荷物が駅の通行を妨げている映像は拡散されるが、通勤時間帯に通路を塞ぐ学生や、優先席を荷物置き場のように使用する日本人については議論されない。つまり、問題視されているのは行為そのものではなく、その行為を行った人間の属性なのである。
この傾向はさらに分かりやすい形で現れることがある。例えば、外国人による犯罪が報道された場合、その行為はしばしば外国人全体の問題として語られる。しかし、日本社会においても様々な問題行動や犯罪は日常的に発生している。回転寿司店で共有容器を舐める若者、勤務先で不衛生な行為を撮影してSNSへ投稿する従業員、同級生への暴力やいじめを撮影して公開する学生、被害者を精神的に追い詰める悪質ないじめ事件など、その例を挙げればきりがない。それでも、それらの行為を理由に「日本人全体に問題がある」と結論づける人はほとんど存在しない。なぜなら、多くの人がその行為を行ったのは個人であり、日本人全体ではないことを理解しているからである。しかし、その当たり前の理屈は、対象が外国人になると突然消えてしまう。
このような考え方が広がる背景には、人間が本来持っている偏見や先入観の存在があるのかもしれない。私は、人間から偏見が完全になくなるとは思っていない。むしろ、それは人間社会の歴史と共に存在してきた極めて普遍的なものである。国籍、民族、宗教、性別、職業、学歴、地域、言語など、人は様々な理由で他者を分類し、ときにはそこに優劣や善悪のイメージを重ね合わせてしまう。その意味では、偏見そのものは決して珍しいものではない。しかし、本当に問題なのは偏見の存在ではなく、その偏見を正当化し始めることである。そして近年のSNSでは、その正当化が以前よりもはるかに露骨な形で行われるようになっているように感じる。
かつてであれば、公の場で口にすることをためらっていたような表現が、今ではSNS上で平然と使われている。外国人に対する侮辱的な呼称、人種や肌の色を揶揄する言葉、国籍だけを理由に人格や能力を決めつける発言、さらには外国人の子どもに対してさえ向けられる差別的な言葉も珍しくなくなった。もちろん、そうした発言を行う人々の中には「事実を言っているだけだ」「本音を言っているだけだ」と主張する人もいる。しかし、本音であることは正当化の理由にはならないし、事実の一部を語ることも正当化にはならない。なぜなら、人は誰でも自分に都合の良い事実だけを集めることができるからである。事実そのものは重要である。しかし、それ以上に重要なのは、どの事実を選び、どの事実を無視しているのかという点である。
例えば、外国人による犯罪を根拠に外国人全体を危険視する人がいるのであれば、その人は同時に日本人による犯罪についても同じ基準で語らなければならない。しかし現実にはそうなっていない。外国人による犯罪は外国人全体の問題として扱われる一方で、日本人による犯罪は個人の問題として扱われる。この違いこそが偏見であり、差別の入り口なのである。同様に、外国人による迷惑行為を問題視するのであれば、日本人による迷惑行為も同じ基準で問題視しなければならない。外国人による美談を無視し、外国人による問題行動だけを集め続けるのであれば、それは現実を見ているのではなく、自分が見たい現実だけを見ているに過ぎない。
そして、このような現象が危険なのは、それが必ずしも悪意によって生まれるとは限らないからである。歴史を振り返れば、多くの差別や排除は「自分たちは正しいことをしている」という信念の下で行われてきた。ユダヤ人に対する差別も、黒人に対する差別も、先住民族に対する差別も、移民に対する差別も、その時代の当事者たちは自らを正義の側だと思っていた。社会を守っていると思っていた。危険から国を守っていると思っていた。だからこそ恐ろしいのである。露骨な悪意だけが社会を壊すのではない。自らの偏見を正義だと信じ込み、その偏見を社会的に正当なものとして広げようとする行為こそが、時として最も深刻な分断を生み出す。
私は、多文化共生に課題がないとは思っていない。議論すべき問題も数多く存在するし、改善すべき制度も少なくない。また、そもそも「多文化共生」という言葉そのものの定義が、社会全体で十分に共有されているとは言い難い。人によってその解釈は大きく異なり、期待する内容も異なる。外国人支援のことだと考える人もいれば、異文化理解だと考える人もいる。労働力確保の話として捉える人もいれば、人権問題として捉える人もいる。その曖昧さ自体が、多文化共生を巡る議論を複雑にしている大きな要因の一つである。しかし、定義が曖昧だからといって、その議論を偏見や差別によって行って良い理由にはならない。むしろ定義が曖昧だからこそ、感情論ではなく、事実に基づいた冷静な議論が必要なのである。
また、多文化共生とは外国人を特別扱いする仕組みではない。外国人のためだけに存在する考え方でもない。異なる背景を持つ人々が共通のルールの下で共に社会を築いていくための考え方であり、その社会の中では外国人だから許される犯罪も存在しないし、日本人だから許される犯罪も存在しない。同じように、外国人だから排除される理由もなければ、日本人だから優遇される理由もない。社会の構成員として求められる責任は共通であり、その責任を果たせないのであれば批判されるべきである。しかし、その批判は行為に向けられるべきであり、国籍や民族に向けられるべきではない。
私は、多文化共生の本質は「違いをなくすこと」ではなく、「違いが存在することを前提に共通の社会を作ること」だと考えている。そのためには外国人にも守るべきルールがあるし、日本人にも守るべきルールがある。外国人だからという理由で問題行動を見逃すべきではないし、日本人だからという理由で責任を軽く考えるべきでもない。同時に、外国人だからという理由で悪人と決めつけるべきでもなく、日本人だからという理由で善人だと思い込むべきでもない。人間である以上、どの国にも素晴らしい人がいる。そして、どの国にも問題を起こす人がいる。それは当たり前のことであり、特定の国籍だけに当てはまる話ではない。
だからこそ私は、SNS上で繰り返される「都合の良い事実」だけを利用した議論に強い危機感を抱いている。それは社会の問題を解決するための議論ではないからである。外国人犯罪を利用して外国人全体を否定することも、日本人による問題行動を利用して日本人全体を否定することも、本質的には同じである。そこには問題解決への意思は存在せず、最初から存在していた偏見を正当化したいという欲求があるだけである。そして、そのような考え方が広がれば広がるほど、社会は人を行為ではなく属性で判断するようになっていく。
差別は、いつも差別という名前で現れるわけではない。「事実を言っているだけだ」「社会を守りたいだけだ」「将来を心配しているだけだ」「これは差別ではなく区別だ」といった言葉をまとって現れることもある。しかし、その言葉の奥にあるものが本当に問題解決への意思なのか、それとも偏見の正当化なのかを見極めなければならない。私たちが向き合うべきなのは、外国人という存在そのものではない。日本人という存在そのものでもない。批判されるべき行為は批判し、評価されるべき行為は評価する。その当たり前の姿勢を失わないことこそが、公平な社会を維持するために最も重要なことではないだろうか。
最後に、一つだけ提案したい。
もしあなたが本当に「事実」を大切にしているのであれば、自分の考えに都合の良い情報だけではなく、都合の悪い情報も調べてみてほしい。
例えば、「外国人は日本社会に貢献していない」と思うのであれば、「日本人を助け 感謝状 外国人」と検索してみればいい。
「日本人はマナーが良い」と思うのであれば、「迷惑行為 学生」や「迷惑行為 中学生」、「迷惑行為 おじさん」や「不衛生 従業員」などと検索してみればいい。「歌舞伎町 ゴミ山 惨状 ルール無視」や「トー横 ゴミ 散乱 缶 カラス」での検索もお忘れなく。
たったそれだけのことである。
自分の考えを肯定する情報を探すことは誰にでもできる。しかし、自分が間違っているかもしれないという可能性に向き合うことは、多くの人が驚くほど苦手である。
それでもなお、自分に都合の良い事実だけを集め、都合の悪い事実には目を向けず、国籍や民族だけを理由に人を判断し続けるのであれば、それはもはや事実を求めているのではない。真実を知りたいのでもない。ただ、自らの偏見を正当化したいだけである。
そして、そのような人間を、社会は昔から一つの言葉で呼んできた。私が説明するまでもない恥じるべき醜い呼び名である。




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