日本における金融機関による外国人に対する制度的差別
- 川西ケンジ

- 10 時間前
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まず最初に明確にしておくべきことがある。差別とは何かを考える際に重要なのは、「個人の感覚」でもなければ、「差別する意図があったかどうか」でもないという点である。実際には、差別的な行為を行った側が「そのつもりはなかった」と主張することは非常に多い。しかし、法的な観点から重要なのは意図ではなく、その結果として何が起きたかである。つまり、結果として特定の人々に不利益や不平等が生じているのであれば、それは差別として評価され得る。
したがって、差別かどうかは個人の主観ではなく、法的な基準に基づいて判断されるべきである。しかし日本においては、この「差別」の定義が一つの法律で統一されているわけではなく、複数の法体系の中で構成されているという特徴がある。
日本における差別の法的枠組み
日本にはいわゆる包括的な差別禁止法が存在せず、差別の概念は憲法、個別法、そして国際条約の組み合わせによって構築されている。その基盤となるのが、日本国憲法第14条に定められた「法の下の平等」であり、人種、信条、性別、社会的身分または門地による差別を禁止している。条文上は「国民」とされているが、判例および通説においては、基本的人権は原則として外国人にも及ぶと解釈されている(ただし選挙権など一部を除く)。
さらに、日本は人種差別撤廃条約(ICERD)を批准しており、この条約では差別を「人種、皮膚の色、世系、民族的又は種族的出身に基づく区別・排除・制限または優先であって、人権の行使を妨げる目的または効果を有するもの」と定義している。ここで重要なのは、「目的」だけでなく「効果」も含まれる点である。
また、日本では個別分野ごとに差別の概念が定義されており、例えば障害者差別解消法では「不当な差別的取扱い」という概念が導入されている。これは、明確な悪意がなくても結果として不利益が生じれば問題となることを示している。
ヘイトスピーチとその限界
2016年にはヘイトスピーチ解消法が施行され、「本邦外出身者」に対する不当な差別的言動への対応が示された。しかし、この法律は刑事罰を伴わず、あくまで努力義務的な性格を持つため、実効性には限界がある。その結果として、差別的な言動が問題視されながらも、実際には継続してしまう構造が残されている。
また、法務省の人権に関する指針においても、外国人に対する不当な扱いは人権問題として明確に位置付けられているが、これもまた強制力を伴う規制ではないため、実効性には限界がある。
間接差別という考え方
雇用分野では、男女雇用機会均等法において「間接差別」という概念が認められている。これは一見中立的なルールであっても、特定の集団に不利な結果をもたらす場合には差別と評価され得るという考え方であり、本稿で扱う多くの問題を理解する上で重要な視点となる。
実態:制度があっても止められない差別
以上のように、日本には差別を否定する原則自体は存在するが、それを実効的に抑止する仕組みは弱く、多くの分野で差別的な扱いが事実上容認されているケースが見られる。特に、罰則を伴わない「努力義務」にとどまる制度設計が多く、その結果として「違法ではないが実質的には差別的である」という状況が広く存在している。
住宅における差別
外国人が住宅を借りようとする際、国籍を理由に入居を拒否されるケースは現在でも広く存在している。収入や保証人などの条件を満たしていても、「外国人だから」という理由のみで断られる事例は珍しくない。また、地域住民が外国人の居住に反対し、不動産の購入自体が困難になるケースも報告されている。これは個人の行動ではなく、属性そのものを理由とした排除である。
誰がどう見ても「外国人だからダメだ」と明示的に拒否する行為は差別と捉えられる。しかし、日本の現行制度においては、物件の所有者が入居者の選定について広い裁量を持っており、その判断基準に国籍が含まれていたとしても、直ちに違法とされるわけではない。このため、明確に差別的な理由に基づく排除であっても、実務上は是正されにくい状況が続いている。
サービスにおける差別
店舗や施設が外国人の入店や利用を拒否する事例も存在する。これらは社会的には問題視されることがあっても、明確な法的制裁が伴わないため、是正が進みにくい状況にある。
また、住宅の場合と同様に、店舗や施設の運営者はサービス提供の対象を一定程度自由に決定する裁量を持っており、その判断の中に属性が含まれていたとしても、直ちに違法とされないケースが多い。このため、結果として排除が継続されやすい構造が存在している。
一方で、こうした排除が日本人に対して行われた場合には、状況は大きく異なる。実際に、日本人の利用を制限した事例では社会的に大きな反発が起き、強い批判が向けられる傾向がある。店舗側の裁量が一定程度認められているとはいえ、それは無制限ではなく、社会的な許容範囲によって大きく左右されることが分かる。
しかし、この許容の幅は対象によって変化している可能性がある。外国人に対する排除については、同様の強い反発が常に生じるわけではなく、結果として事実上の裁量がより広く機能していると見ることもできる。
また、訴訟などにおいて外国人側が勝訴するケースも存在するが、その多くは、すでに日本国籍を取得した元外国人など、「法的には日本人であるが外見的に外国人と認識される」ケースであると指摘されることもある。これは、実際の運用においては国籍そのものよりも外見や属性の印象が判断に影響している可能性を示唆している。
労働市場における構造的偏り
外国人労働者の多くが派遣社員などの非正規雇用に集中している現状も見逃せない。制度上は正社員になることが禁止されているわけではないが、実際には「外国人は採用しない」といった明示的または暗黙的な壁が存在し、その結果として不安定な雇用形態に偏る傾向がある。
この傾向は、公的な職業紹介機関であるハローワーク(公共職業安定所)においても例外ではない。外国人であることが分かった時点で、企業側の意向として「外国人は対象外」とされているケースが事前に共有されることがあり、求職者が無駄に足を運ぶことを避けるため、窓口の担当者があらかじめ説明を行う場面も見られる。
筆者自身の経験においても、応募の段階で約7割はその場で断られ、面接にすら進めないケースが大半であった。担当者が日本語能力(会話・読み書き)や在留資格に問題がないことを丁寧に説明しても、企業側の判断は覆らないことが多い。また、約2割程度は履歴書の提出までは認められるものの、その後面接に進むことはほとんどなかった。実際に面接まで進めたのは全体の1割程度に過ぎず、それも担当者の相当な働きかけによるものであった。
最終的に採用に至るケースは極めて限られており、外国人であるという要素が選考の初期段階で大きく影響している実態がうかがえる。筆者自身、結果として正社員として採用された経験はあるが、それは例外的なケースであり、多くの場合は機会そのものが与えられないまま排除されているのが現実である。
行政制度における負担の偏り
マイナンバーカードの有効期限が在留資格に連動していることにより、外国人は在留期間の更新に合わせて複数回の手続きを強いられる場合がある。健康保険証との一体化が進む中で、この手続きは実質的に強制性を持つようになっており、日本人には存在しない追加的な行政負担となっている。
実際の運用においては、この負担は単なる一度の手続きでは終わらない。筆者は家族の在留資格更新に同行した際、更新直後にまず市区町村窓口でマイナンバーカードの失効を防ぐための「2か月の特例延長」の手続きを行う必要があった。この手続き自体は窓口の混雑状況によっては20分程度で終わることもあるが、平日の開庁時間内に役所へ出向く必要がある。その後、在留カードの新しい期限が確定すると、再度窓口に行き、正式な有効期限の更新手続きを行わなければならない。
さらに、マイナンバーカードの有効期限が更新されるたびに、その新しい期限はカードの追記欄に記載される仕組みになっている。この欄は本来、住所変更などを記録するために使用されるものであるが、在留資格の更新が繰り返される外国人の場合、この欄が短期間で埋まっていくことになる。そのため、一定回数の更新を経るとカード自体の再発行が必要となるケースがあり、その間はカードを手元に持てない期間が発生する。
再発行には通常数週間程度を要するため、その間は健康保険証機能を含む各種サービスの利用に制約が生じることになる。さらに、引っ越しなど他の行政手続きが重なる場合には、この負担はより頻繁に発生する。また、在留資格が1年更新や3か月更新といった短期の場合には、このサイクルがさらに短くなり、結果として行政手続きの頻度が過度に増加する構造となっている。
加えて、金融機関では在留資格更新に伴う情報更新が求められるため、マイナンバーカードの再発行期間と銀行手続きのタイミングが重なると、生活上の不便がさらに増大する可能性がある。
生活保護に関する法的曖昧さ
生活保護についても、日本では外国人に対する明確な権利としては保障されていない。判例上、支給は可能とされているが、それはあくまで行政裁量によるものであり、権利として請求できるものではない。そのため、日本で生まれ育ち長年納税してきた外国人であっても、制度上の保証は存在しない。一方で、外国人に対しては入管制度上「自立」が求められており、この点との整合性については議論の余地が残る。
もっとも、外国人に対して公的扶助をどこまで認めるべきかという点については、一定の慎重な立場が存在することも理解できる。特に、短期間の滞在者や十分な社会的貢献を行っていない段階の外国人に対しては、制度の持続性や財源の観点から制限的に運用されること自体には合理性があると考えられる場合もある。
しかし一方で、日本で生まれ育ち、長期間にわたって生活し、税金を納めてきた外国人が存在することも事実である。こうした人々は実質的には日本社会の構成員でありながら、国籍を理由として制度上の権利から排除される構造になっている。この点については、国籍という形式的要素のみで扱いを区別することの妥当性が問われる。
さらに、日本の国籍制度は基本的に血統主義(いわゆる「血のつながり」に基づく制度)を採用しているため、出生や生活実態が同一であっても、国籍の有無によって法的地位が大きく分かれる構造が存在する。その結果として、「実質的には日本社会の一員でありながら、法的には異なる扱いを受ける」という状況が生じている。
本来問題となるべきは、外国人に生活保護を認めるか否かという二分的な議論そのものではなく、同様の負担を共有しているにもかかわらず、制度上の権利配分に明確な線引きが存在しないまま運用されている点にあると考えられる。
政治的言論における非対称性
日本では、政治の場において外国人に対する否定的な言説が比較的自由に行われている。近年の選挙においても、「犯罪増加の原因は外国人である」あるいは「外国人が制度を悪用している」といった主張が見られるが、それらは統計全体を反映したものとは限らず、部分的事実の強調にとどまるケースも多い。それにもかかわらず、こうした発言は基本的に処罰の対象とはならず、民主主義における言論の自由の範囲として扱われる。
一方で、外国人自身の政治的表現は制限されている。出入国管理制度においては「素行善良」が求められており、政府に対する強い反対活動が在留資格の更新に影響を与える可能性がある。この点はマクリーン事件においても確認されており、日本では外国人を批判する自由と、外国人が政治的に発言する自由の間に明確な非対称性が存在している。
加えて近年では、「外国人」というテーマ自体が政治的な争点として扱いやすい性質を持つことから、選挙戦略の一部として利用される傾向も見られる。その背景には、SNSを中心とした情報流通の構造があると考えられる。短く単純化されたメッセージは拡散されやすく、またアルゴリズムによって対立や感情を伴う内容ほど可視化されやすい。その結果として、複雑な現実が単純な対立構造へと還元されやすくなり、議論が循環的に過激化していく傾向が生まれている。
このような環境では、外国人に関する議論はしばしば感情的な対立を伴いながら拡散され、それ自体がさらなる反応を生み出すという循環構造が形成される。結果として、政治的言説が自己増幅的に強化されていく側面がある。
また、こうした状況の中で発生する個別の衝突事例が、全体像の印象形成に利用されることもある。例えば、外国人に対する批判的な発言の場において、抗議や対立が発生した場合、その一部の行動が切り取られ、「外国人側に問題がある」といった一般化に用いられることがある。しかしこれは、前提となる文脈全体を切り離した解釈である可能性も否定できない。
さらに構造的な問題として、外国人は政治的な発言を行うこと自体が在留資格に影響し得る一方で、外国人に対する批判的言説は制度的に広く許容されているという非対称性が存在している。この点において、政治的表現の自由は同一条件で保障されているとは言い難い状況がある。
補足:ここで挙げた事例について
ここまでに挙げた事例は、日本における外国人に対する差別の一部に過ぎない。同様の問題は他の分野にも広く存在しており、ここで取り上げた内容だけで全体を網羅しているわけではない。
また、重要なのは、これらの差別が必ずしも個人の明確な悪意や敵意によって生じているわけではないという点である。日本社会における差別の多くは、特定の対象を積極的に排除しようとする意図というよりも、「違い」に対する強い意識や、同質性を重視する文化の中で自然に形成されてきた側面を持っている。そのため、日本人同士の間においても、属性や立場の違いに基づく排除や区別は一定程度存在している。
しかしながら、近年は状況に変化も見られる。外国人であることそのものを理由とした、より直接的で感情的な否定や排除の言動が目立つようになってきている。こうした傾向の背景には、SNSの普及による情報拡散の在り方が影響している可能性も否定できない。短い言葉や断片的な情報が強く拡散される環境の中で、複雑な現実が単純化され、特定のイメージだけが強調されやすくなっている。
本稿で扱っているような問題は、本来、個別の事情や制度の構造を踏まえて丁寧に検討されるべきものである。しかし現実には、そのような複雑さが十分に共有されないまま、単純な理解が広がっている点にも注意が必要である。
金融機関における問題
そして、本稿の中心的論点である金融機関における問題に移ると、ここにはより明確な構造的矛盾が存在する。筆者自身、通訳として複数の銀行に同行した経験から一貫して確認しているのは、外国人が融資相談(住宅ローン、自動車ローン、教育ローンなど)を希望する際、予約や初期相談の段階で「永住権の有無」が確認され、「日本語の読み・書き・会話・理解能力」が問われるという事実である。
上記の表現の仕方では、分かりにくいので実際に言われるままの言い方で説明すると「融資を受けたい方は、日本語が話せて、理解出来て、書けて、読めますか?これらすべてが出来ないと融資の対象になりませんので」と言われます。条件が明確であれば、それを満たそうとする努力もできますが相手の求めるものを理解出来ずに相手の期待に応えなければならない。
むしろ条件を満たさないことを前提としているのではないかと感じる。
この質問には明確な基準は存在せず、「理解できるかどうか」という極めて曖昧な基準のみが用いられている。そしてこの段階で「難しい可能性がある」と判断された場合、その時点で融資対象外とされることが多く、実質的には正式な審査に入る前に選別が完了している構造となっている。
さらに、仮に「できる」と回答した場合であっても、面談当日は原則として本人のみでの対応が求められ、同行者による補助は認められないことが多い。しかし同様の状況にある日本人に対して、こうした厳密な理解能力の検証が行われることはほとんどない。例えば成人したばかりの若年層であっても、専門的な金融用語や契約内容の完全な理解が事前に検証されることはなく、家族が同席して手続きを補助することも一般的に許容されている。
また、銀行は「契約内容の理解」を理由として融資を制限する一方で、外国人が労働契約、賃貸契約、通信契約、さらには高金利の金融商品に関する契約を締結することについては制限していない。これらの契約はすべて法的に有効であり、仮に内容を完全に理解していなかったとしても、署名によって契約は成立し、法的責任が発生する。このような現実を踏まえると、「理解能力」を理由に銀行融資のみを制限することは一貫性を欠いている。
さらに、金融機関は外国人の預金を受け入れ、その資金を運用して利益を得ているにもかかわらず、低金利の融資商品へのアクセスについては制限を設けている。その結果として、外国人は銀行融資ではなく、より高金利の消費者金融のローンやクレジットカードに依存せざるを得ず、経済的負担が増大する構造が生じている。
また、通称名の使用によってクレジットカード審査の通過率が変化するという指摘もあり、審査プロセスにおいて氏名が影響を及ぼしている可能性が示唆されている。加えて、外国人の長い氏名に対応できないシステム的制約により、通帳の手書き対応が必要となり、ATMなどの自動サービスの利用が制限されるケースも存在する。これらは形式上は技術的制約と説明されることが多いが、結果として特定の属性に不利益が集中している以上、間接差別として検討されるべき問題である。
問題は「差別」そのものではなく、その扱い方である
最後に一つ、誤解のないようにしておきたい。
筆者は、日本が主権国家としてどのような制度を採用するかについて否定する立場ではない。どの国にも独自の価値観とルールがあり、それに基づいて社会が運営されるのは当然のことである。極論すれば、その国が差別的な制度を選択することも主権の一部であるとも言える。
しかし、問題はそこではない。
実際に差別的な結果が生じているにもかかわらず、それを「差別ではない」と説明し続ける姿勢にこそ、本質的な問題がある。国際条約に参加し、平等を掲げながら、制度の中で排除が行われているのであれば、その矛盾は無視できない。
差別をするのであれば、その現実を認めるべきである。少なくとも、「差別ではない」と言い換えることで問題を覆い隠すべきではない。
それが、この問題に対する最も率直な指摘である。




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