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異なる意見を持つことも、民主主義です

株式会社 PUTZ Network プツ・ネットワーク
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先日、私が利用しているSNSの一つで、面識のない方からダイレクトメッセージをいただきました。内容は、私がある投稿に対して書いたコメントへの意見でした。私は、このメッセージを受け取ったことを、決して不快には思っていません。むしろ、民主主義という観点から考えれば、とても大切なことだと思っています。自分の考えを持ち、それを言葉にして相手に伝えることは、その人に認められた当然の権利です。そして、一人が自分の意見を表明するということは、同時に、その意見に対して別の人間が異なる意見を述べる機会も生まれるということです。もちろん、相手の意見に賛成する必要はありません。しかし、異なる意見が存在することそのものを否定してしまえば、民主主義における「議論」の意味も失われてしまいます。特に今回のように、SNS上の通常のコメントには文字数などの制限があり、複雑な考えを十分に説明することが難しい場合、ダイレクトメッセージという形で改めて意見を伝えていただいたことは、私にとって自分の考えをより丁寧に説明する機会にもなりました。


今回、私がこのやり取りを記事として残そうと思ったのには理由があります。相手の方を批判したいからでも、言い負かしたことを示したいからでもありません。むしろ、私は今回のやり取りを、一つの「対話の機会」だと考えています。相手の方が私の考えを理解して、その意見を変えてくれれば、それはもちろん嬉しいことかもしれません。しかし、私が本当に望んでいるのは、必ずしも意見を変えてもらうことではありません。自分とは異なる意見にも一度耳を傾け、「自分が見ているものとは別の見方もあるのではないか」と考えてみること。それだけでも、民主主義における議論は少し豊かになるのではないかと思っています。そして、私自身もまた同じです。自分が正しいと思っているからこそ、自分とは違う意見を聞く必要があります。自分の考えだけを見ているのであれば、それは「議論」ではなく、単なる確認作業になってしまうからです。


今回のきっかけとなったのは、SNSのニュースフィードに表示された、ある第三者の投稿でした。その投稿では、外国人による非常に重大な犯罪事件を取り上げ、その事件を外国人の受け入れそのものや、日本における多文化共生の問題と結び付けて論じていました。実際の投稿には、事件に関する写真も添付されていました。投稿の内容は、以下のようなものでした。


「逮捕しながら、取り調べ中に逃げられて6人を連続して刺殺。死刑判決が一転して、無期懲役。こんな外国人を入れることだけでも問題なのに、警察は逃して、司法は極刑にできない。外国人犯罪を裁く準備もできない。それで、何が多文化共生だ、仲良くしようだと言いたいです。政府には、もっと国民のことを考えてほしいですね」

※上記の画像は、実際に当時の投稿に添付されていたものです。


この投稿に対して、私は次のようにコメントしました。


「外国人を嫌うのは、自由です。正当化も理由も要らないです。でも、あなたの言うことは、醜い。多文化共生は、外国人にとっても、日本人にとっても素晴らしいもの。でも、差別主義者にとっては、必死に避けたい。(排除以外の道が原則として不都合だから)だから、悪い例(外国人ん全体数の少数の中の一部の行為)を使って、全体を拒否したい。すごーく良い事もあるが都合が悪いから見なかった事に。日本人を助けて死んだ外国人もいる。課題は、ある。悪い人も国籍を問わず、いる。でも、あなたの言葉は、「悪い人がいるから平和ではなく、戦争の道しか無い」。あなた方にとって都合の悪いニュースをいくつか添付しますね。 https://youtu.be/yO41uf23zEM?si=Omu0HbS5K3R0kHkf



このコメントだけではなく、その後のやり取りの中でも、私は外国人が日本人を助けた事例や、日本社会に貢献した外国人が表彰された事例など、外国人に関するさまざまな良いニュースや動画、記事を複数紹介しました。意図は、悪い例を否定することではなく、「悪い例を探せば悪い例が見つかる一方で、良い例を探せば良い例も数多く存在する」ということを示すことでした。一つの重大な事件だけを見て外国人全体を判断するのではなく、同じ社会の中で実際に起きているさまざまな出来事を、できるだけ広く見てほしいという意図です。


そして、私のコメントを引用する形で、別の方から私にダイレクトメッセージが届きました。その方とは、それまで面識がありませんでした。送られてきたメッセージは、次のようなものでした。


「お花畑だな

良い例はわかるけど悪い例は良い例の何十倍もあるからな

多文化共生する以前の問題だと思うけどね」


繰り返しになりますが、私はこのメッセージを受け取ったこと自体を問題だとは考えていません。その方には、その方の意見を持つ自由がありますし、私の考えに反対する自由もあります。「お花畑だ」と思うのであれば、そう表現する自由もあるでしょう。私がむしろ嬉しく思ったのは、その方が自分の考えを言葉にして、わざわざ私に伝えてくれたことです。もし何も言わなければ、私はその方がどのように考えているのか知ることもできませんでした。そして、相手が意見を伝えてくれたからこそ、私も「なぜ私はそう考えているのか」を、より詳しく説明することができました。だから私は、このやり取りを対立ではなく、議論の入り口として捉えたいと思いました。


以下が、私がその方に返信した内容です。


「返事としてきちんと答えたいからこそ長い文書を作りました。しかし、文字制限で少しずつしか送れません。ワードに既にまとめた返事を分割してコピペして送りますのでご容赦ください。よろしくお願いいたします。


「お花畑だな」と言われましたが、面白いですね。もし「お花畑」の反対側の言葉を無理やり作るなら、「頭の中が地獄絵図」とでも言えばいいのでしょうか。つまり、良いことを現実以上に大きく見てしまう人が「お花畑」なら、悪いことを現実以上に大きく見てしまう人もいるわけです。私は、あなたの「悪い例は良い例の何十倍もある」という言葉を見て、むしろそちらのほうが気になりました。なぜなら、あなたは「何十倍もある」と断言していますが、その数字はどこから出てきたのでしょうか。何を基準に、何と何を比較して、どういう統計から「何十倍」という数字を出したのでしょうか。そこをまず聞きたいです。


そして、残念ですが、あなたはここで人間の心理について少し間違えていると思います。私は「悪い例なんて存在しない」と言っているわけではありません。むしろ、外国人による犯罪や社会的な問題が存在することは最初から認めています。私が言っているのは、「悪い例が存在する」という事実と、「だから外国人には悪い例のほうが圧倒的に多い」という認識は全く別の話だ、ということです。そして、人間には、実際の発生頻度と、自分が感じている発生頻度を簡単に混同してしまう心理的な傾向があります。これは私が勝手に作った理屈ではなく、心理学でかなり以前から研究されていることです。


例えば、一番分かりやすいのが車です。車を買う前は、街を走っている同じ車種をほとんど意識しません。ところが自分がその車を買った瞬間、「あれ?この車、こんなに走ってたの?」と思うくらい、同じ車が目に入るようになります。別に、その日から突然その車が大量に増えたわけではありません。自分の注意がその情報を拾うようになっただけです。これは「頻度錯誤 (frequency illusion)」、いわゆるバーダー・マインホフ現象として知られているものです。自分の中で重要になった情報が、急に世の中に増えたように感じるわけです。


もう一つ、同じように分かりやすい例があります。それは「時間の感じ方」です。楽しいことをしていると時間があっという間に過ぎたように感じる一方で、退屈なことをしていたり、時計を何度も気にしていたりすると、同じ一時間がものすごく長く感じることがあります。でも、当然ながら、その一時間そのものが速くなったり遅くなったりしたわけではありません。時間は同じ速度で進んでいます。変わったのは、自分がどれだけ時間を意識しているか、どれだけその時間に注意を向けているか、そしてその時間をどう評価しているかです。つまり、「自分には長く感じた」という感覚と、「実際に時間が長くなった」という事実は別です。これも今回の話とよく似ています。「外国人による悪いニュースがたくさん目に入る」「悪い例をたくさん覚えている」「だから悪い例が実際に何十倍も多いはずだ」という考え方も、それだけでは成立しません。自分の意識がどこに向いているかによって、見えている世界の大きさそのものが変わって感じられるからです。


外国人についても、同じようなことが起こり得ます。例えば「外国人の犯罪」というものを強く意識するようになると、それまでなら一つのニュースとして流していた事件でも、「また外国人だ」と強く認識するようになります。そして次に似たニュースが出ると、また記憶に残ります。さらに次のニュースも残る。そうすると、自分の頭の中には「外国人による悪いニュース」がどんどん蓄積されていきます。そこで「こんなにたくさんある。きっと実際にもものすごく多いんだ」と感じてしまう。しかし、頭の中に思い出せる事例が多いことと、現実社会での発生率が高いことは同じではありません。


心理学では、これに非常に近いものとして「利用可能性ヒューリスティック (availability heuristic)」があります。人間は、ある出来事をどれくらい頻繁に思い出せるか、どれくらい簡単に頭に浮かぶかによって、その出来事が実際にどれくらい頻繁に起きているかを判断してしまう傾向があります。つまり、「すぐ思い出せる=たくさん起きている」と無意識に判断してしまうわけです。ところが、ニュースになった事件は、そもそも普通の日常よりも圧倒的に記憶に残ります。飛行機事故を何度もニュースで見ていると、飛行機事故が実際の発生確率以上に多く感じられる、というのが典型的な説明です。だから「自分がたくさん見た」ということだけでは、「現実にたくさん起きている」という証明にはなりません。


そして、ここにもう一つ重要な心理があります。それが「ネガティビティ・バイアス」です。人間は、良い情報よりも悪い情報に強く反応しやすい。例えば、外国人がコンビニで普通に買い物をして、仕事に行って、税金を払って、近所の人に挨拶をして、誰にも迷惑をかけずに一日を終えたとしても、それはニュースになりません。ところが、その同じ外国人が犯罪を犯したら、一気にニュースになります。「今日、外国人100万人が何も犯罪をしませんでした」というニュースを毎日流すテレビ局はありません。しかし「外国人が重大犯罪を起こした」というニュースは流れます。これは外国人に限った話ではありません。日本人が犯罪を犯しても同じです。ただ、今回の話題が外国人なので、「外国人犯罪」というカテゴリーでニュースが目に入るようになっているだけです。


テレビや新聞についても同じです。私は実際にテレビや新聞の取材を受けた経験があるので、これはかなり実感しています。外国人や地域社会に関する良い活動をしていて、新聞社やテレビ局が「これは面白いですね」「ぜひ取材したい」と言ってくれたとしても、それが必ずしもすぐ報道されるわけではありません。なぜなら、その間に重大事件が起きたり、選挙があったり、大きな事故があったりすると、そちらが先に入ってくるからです。メディアには限られた紙面と放送時間しかありません。そして、視聴者や読者の注意を引く必要があります。だから、犯罪、事故、対立、事件、炎上などの情報は、普通の日常よりも圧倒的にニュースになりやすい。これは「良いことが存在しない」という意味ではありません。「良いことは存在していても、ニュースとして可視化されにくい」という意味です。


そしてSNSになると、さらに話が複雑になります。SNSは、単純に「世の中で起きたことを均等に見せてくれる窓」ではありません。自分が過去に何を見たか、何に反応したか、何をクリックしたか、どんな投稿を長く見たかなどによって、似たような情報が次々と表示されます。つまり、一度「外国人犯罪」に関心を持てば、外国人犯罪のニュースがさらに目に入りやすくなる。すると「また外国人犯罪だ」と感じる。そしてまたクリックする。するとさらに同じ種類の情報が出てくる。この循環が起こります。しかも、自分と似た意見の人たちの投稿ばかりを見ていると、「みんな同じことを言っている。やっぱり自分が正しい」と感じやすくなる。これは確証バイアス (confirmation bias) や選択的接触などとも関係しています。


つまり、あなたが「悪い例は何十倍もある」と感じているとしても、その感覚そのものが、現実の発生率を測定したデータにはなりません。むしろ、外国人に関する悪いニュースを多く見ている人ほど、「悪い例が実際以上に多い」と感じる条件が揃ってしまうことがあります。これは「あなたは嘘をついている」と言っているのではありません。あなた自身が意図的にそうしているとも言っていません。人間の認知そのものが、そういう間違いを起こし得るという話です。


夫婦の例を考えても分かります。結婚したばかりの頃は、相手が料理を作ってくれれば「ありがとう」、洗い物をしてくれれば「ありがとう」と思う。しかし何年も一緒に暮らしていると、それが当たり前になっていく。相手が毎日してくれていることは、いつの間にか「普通」になり、わざわざ意識しなくなる。一方で、いつもしてくれていたことを一日しなかった場合は、「今日は何もしなかった」と強く感じるようになる。つまり、プラスの行動は繰り返されることで「当たり前」に吸収され、マイナスの出来事は「異常」として強く認識される。このような馴化や適応、そしてネガティブな出来事を強く評価する傾向が、人間の判断に影響します。


外国人についても同じです。日本にいる外国人の大多数が普通に働いて、学校に通って、家族を養って、地域で生活して、法律を守っていることは、ニュースになりません。それは「普通だから」です。しかし、その中の一人が重大犯罪を起こせば、「外国人が犯罪を犯した」という非常に目立つ出来事になります。そしてそのニュースがテレビ、新聞、SNS、まとめサイト、YouTubeなどを何度も巡回すれば、実際には一人の事件だったものが、何十回、何百回と「外国人犯罪」という形で目に入ってくることになります。発生した事件の数と、自分がその事件を目にした回数は全く違います。


だからこそ、私は「悪い例が何十倍もある」というあなたの言葉に疑問を持っています。警察庁には外国人犯罪についての統計があります。刑法犯や特別法犯について、検挙件数や検挙人員などが公表されています。しかし、そこに「外国人がした良いこと」と「外国人がした悪いこと」を並べて、「悪いことが良いことの何十倍です」と計算した統計があるわけではありません。まして、「日本にいる外国人の大多数が悪い」ということを証明するデータでもありません。だから、「何十倍もある」という数字を使うのであれば、私は単純に「その根拠はどこですか?」と聞きたいです。警察庁の統計を出すなら、その統計が実際に何を示しているのかまで一緒に見ましょう。


ちなみに、警察庁が毎年公表している正式な政府資料に「警察白書」があります。これは外国人犯罪について語る人たちが実際によく引用している資料でもあります。外国人犯罪を問題視する人たちは、この白書の中から外国人による犯罪の検挙件数や検挙人員など、自分たちの主張に都合のいい数字を取り出して「外国人犯罪が増えている」「外国人は犯罪が多い」と主張することがあります。しかし、白書をきちんと読むのであれば、重要なのは外国人による犯罪の「件数」だけではありません。日本人と外国人では人口そのものが全く違うのですから、比較するなら、それぞれの人口に対してどの程度の割合になるのかを見る必要があります。実際、警察庁の「警察白書」には、外国人犯罪についての検挙状況だけではなく、国籍別の検挙状況なども掲載されています。つまり、「外国人が何人検挙された」という数字だけを見て、「だから外国人は危険だ」と結論するのは統計の読み方として不十分です。むしろ、こうした統計から確認できるのは、外国人全体の中で犯罪によって検挙される人はごく一部にすぎないということです。少なくとも、「外国人の大多数が犯罪者である」といった認識を裏付ける資料ではありません。仮に単純化して考えても、検挙された人を除いた外国人人口は圧倒的に大きく、外国人の大多数が犯罪をしていないという当たり前の事実は、こうした公的統計からも確認できます。だからこそ、外国人犯罪の数字を根拠に外国人全体を語るのであれば、まず「外国人全体のうち、実際に何%か」というところまで見なければいけないと思います。悪い例だけを切り取るのではなく、分母まで含めて見る。それが「現実を見る」ということではないでしょうか。


そして、ここは非常に重要なのですが、私は「外国人に問題がない」と言っていません。私の元の投稿にも「課題はある」と書きました。外国人による犯罪をどう減らすのか、ルールを守らない人にどう対応するのか、悪質な外国人をどう排除するのか、どうすれば日本社会に適応できる人をより多く受け入れられるのか。これは真剣に考えるべき問題です。しかし、それと「外国人全体を一括りにして拒否する」という話は別です。日本人が犯罪を犯したからといって「日本人は危険な民族だから排除しよう」とは普通言わないでしょう。犯罪を犯した「その人」を問題にします。外国人についても同じであるべきです。国籍を理由に個人の犯罪を集団全体の性質に変換した瞬間、議論の対象が「犯罪対策」から「集団の排除」に変わってしまいます。


そして、あなたの「多文化共生する以前の問題だ」という言葉についても、私はそこが非常に興味深いと思っています。なぜなら、これは単なる順番の問題に見えて、実は考え方そのものに関係しているからです。「問題があるから、多文化共生はできない」という結論にしてしまうと、多文化共生によって問題をどう解決するか、という発想そのものが最初から消えてしまいます。例えば、外国人が日本語を理解できないことが問題なら、日本語教育をどうするか。地域のルールを知らないことが問題なら、どうやってルールを伝えるか。犯罪を犯す人がいるなら、入国審査、在留管理、警察、司法、地域社会の仕組みをどう改善するか。こういう問題解決こそが「共生」の中身でしょう。「問題があるから共生以前」というだけでは、問題を解決する方法を最初から閉ざしてしまいます。


ここには、政治的な議論でもよく見られる構造があります。自分が反対している対象については、悪い例を集中的に取り上げ、良い例を「例外」「たまたま」「そんなものは関係ない」と小さく扱う。一方で、自分が支持する側の問題については、「一部の人間だけ」「特殊なケース」「全体には関係ない」と小さく扱う。これは外国人問題に限りません。政治、宗教、社会問題、男女問題、世代間対立など、ほとんどあらゆる対立で起こり得ます。人間は、自分が支持する結論に都合のいい情報を重く評価し、反対する情報を軽く評価しやすいからです。


だから私は、あなたが意識的に人を騙そうとしていると言っているわけではありません。むしろ、本人が自覚していないところで起こるからこそ厄介なのです。「自分は感情ではなく現実を見て判断している」と本人が思っていても、その「現実」が、どの情報を見て、どの情報を見落として、どの情報を記憶しているかによって作られている可能性がある。人間は自分が見たものを「世界そのもの」だと思いやすい。でも、実際には、自分が見たものは世界の一部にすぎません。


例えば「参政党」の外国人政策を見ても、外国人の受け入れ制限、永住・帰化要件の厳格化、外国人犯罪や不法滞在への取締強化などを強く打ち出しています。政治的には、こうした「問題」を強く取り上げることで支持者に分かりやすいメッセージを作ることができます。そして、強い言葉や対立を生むテーマはSNSでも拡散されやすい。これは「参政党の人たちが全員、外国人を憎んでいる」という単純な話ではありません。政治において、対立を明確にし、注目を集め、支持者を結集させることが有効な場合がある、という話です。実際、参政党自身の現在の政策文書でも、外国人受け入れの制限や外国人政策の大幅な厳格化を掲げています。


そして、この「自分にとって都合のいい情報は大きく扱い、都合の悪い情報は小さく扱う」という人間の傾向を、もっと身近な政治の例で見ることもできます。参政党の中でも、過去に一部の党員・関係者が、収入の低い会社を利用する形で社会保険料の負担を抑えていたことが問題になり、批判されたことがありました。制度上利用できる仕組みだったとしても、社会保険料の負担を不当に低く抑えるようなやり方として強く批判されたわけです。しかも、これはまさに「外国人がやっている悪いこと」の一つとしてこれまで批判し続けていました。ここで私が面白いと思うのは、その問題が党内で起きたときの扱いです。普段、外国人については「一部の人間がやった悪いこと」を取り上げ、それを外国人全体の問題であるかのように語る一方で、自分たちの側で同じように問題が起きると、「それは一部の党員の問題だ」「その人たち個人の問題だ」と個別化する。つまり、外国人については「一人の行為を全体に広げる」のに、自分たちの側では「全体の問題にせず、個人の問題として切り分ける」。私は、この対応自体を悪いことだと言っているのではありません。むしろ、自分たちの仲間の一部が問題を起こしたからといって、その人たち以外まで同じ人間だと決めつけないのは当然のことです。私が言いたいのは、その「個人と全体を区別する」という当たり前の考え方を、外国人に対しても同じように適用すべきだということです。そして、私は参政党の代表がそういう対応をしたこと自体を責めているわけでもありません。なぜなら、それこそが人間として自然な心理だからです。自分たちにとって都合の悪い問題が起きたときには「一部の問題」として捉え、逆に自分が反対する集団について、「全体の問題」として捉えやすい。だからこそ、この心理的な偏りを自覚して、自分にも同じ基準を適用することが重要なのだと思います。


歴史的にも、ある集団について悪い事例だけを繰り返し提示し、その集団全体を「問題」として扱う政治宣伝は、決して珍しいものではありません。もちろん、現代の日本の外国人政策をそのままナチスなどと同一視しているわけではありません。そこは全く別の話です。ただ、「個々の人間の行為を集団全体の性質として描く」「悪い例を繰り返し提示して集団への恐怖や嫌悪を形成する」という宣伝の構造自体は、歴史上何度も利用されてきました。そして、それが本人の意識的な悪意によって行われるとは限りません。


だから、私があなたに「お花畑」と言われても、別に気にしません。私が言いたいのは、あなたが現実を見ていないということではありません。むしろ逆です。あなたが「現実を見ている」と思っているからこそ、その現実が本当に全体を代表しているのか、一度立ち止まって確認してほしいと言っています。


「外国人による悪い例がある」これは事実です。「外国人問題には課題がある」これも事実です。「悪い外国人には厳しく対応すべきだ」私も反対しません。しかし、「だから外国人全体を拒否すべきだ」「悪い例のほうが何十倍も多い」というところまで行くには、それを証明する別の根拠が必要です。


私は、あなたより外国人を無条件に信じているわけでも、日本人より外国人のほうが優れていると思っているわけでもありません。日本人にも良い人と悪い人がいる。外国人にも良い人と悪い人がいる。ただそれだけです。


そして、もし本当に「何十倍も悪い」というデータがあるなら、ぜひ見せてください。私は感情論で「外国人は安全だ」と言うつもりもありません。数字があるなら数字で話しましょう。警察庁の統計でも、政府の資料でも、信頼できる研究でも構いません。


ただ、「自分のSNSに悪いニュースがたくさん流れてくる」「テレビで外国人犯罪を何度も見る」「自分が思い出せる外国人の悪い例がたくさんある」ということと、「現実社会で悪い外国人が良い外国人より何十倍も多い」ということは、同じではありません。


そこを区別せずに「お花畑」と言うのであれば、私はむしろ、どちらが現実を見ているのかを一度一緒に数字で確認したほうがいいと思います。


私は、自分の感情を「現実」と呼んでいるつもりはありません。あなたにも、あなたの感情を「現実そのもの」だと決めつけないでほしい。それだけです。」


ここまで読んでいただければ分かると思いますが、今回の返信では、単に「外国人にも良い人がいる」ということだけを言いたかったわけではありません。私が問題にしたかったのは、私たちが情報を受け取り、記憶し、判断するときに、知らないうちにどのような偏りが生まれ得るのかということです。そして、それは外国人問題だけに限った話でもありません。政治であっても、社会問題であっても、自分が反対するものについて悪い例を大きく捉え、自分が支持するものについては悪い例を小さく捉えるということは、誰にでも起こり得ます。だからこそ、今回の話は「外国人に賛成か反対か」という二択だけで終わらせるのではなく、私たち自身がどのように物事を見ているのかを考えるきっかけにもなるのではないかと思っています。


今回、私がこのやり取りを記事として残そうと思ったもう一つの理由は、今回整理した内容が、今後また別の場面で役立つ可能性があると考えたからです。SNSで外国人や移民、多文化共生について議論すると、今回と似たような主張が繰り返し登場します。そのたびにゼロから同じことを説明するのではなく、今回のように一度きちんと調べ、考え、整理したものを記録しておけば、私自身が将来参考にすることもできますし、同じような疑問を持った人が読んでくれる可能性もあります。時間をかけて調べた内容を、一度のSNS上のやり取りだけで終わらせてしまうのは、少しもったいないとも思いました。


また、この記事を読んでくださる方の中には、私の意見に賛成できない方もいると思います。それは当然のことです。この記事を読んだからといって、外国人政策や多文化共生について同じ結論に到達する必要はありません。むしろ、異なる意見を持つ人にも読んでいただき、「自分はここには賛成できない」「この部分は理解できる」と、それぞれの立場から考えていただければ、それだけでもこの記事を公開した意味はあると思っています。


私が今回のやり取りから改めて感じたのは、民主主義とは「みんなが同じ意見になること」ではないということです。意見が違っていても、それを言葉にすることができる。そして、それを聞いた側も、自分の考えを説明することができる。その繰り返しの中で、お互いの考えを知ることができる。私は、それこそが民主主義における対話の一つの形なのだと思います。


そして、私はこれからも、外国人や多文化共生について、良いことだけを発信するつもりもありません。問題があるのであれば、それも取り上げます。改善すべきことがあるのであれば、それについても考えます。ただし、悪い例だけを見て全体を判断することもしません。良い例だけを見て問題を無視することもしません。できるだけ多くの事実を見て、その上で考える。その姿勢を、自分自身にも求めていきたいと思っています。


私は、より寛容で、より多くの人が安心して暮らすことのできる社会を作ることは、決して簡単ではないと思っています。多文化共生も、ただ「仲良くしましょう」と言えば実現するものではありません。そこにはルールも必要ですし、制度も必要ですし、問題が起きたときに対応する仕組みも必要です。そして何より、異なる背景を持つ人たちが、お互いを一括りにせず、一人ひとりを見ることができる社会であることが重要だと思います。


今回、私にメッセージをくださった方には、改めて感謝したいと思います。もちろん、私の返信を読んで考えが変わったかどうかは分かりません。それでも、私はこのやり取りがあったこと自体に意味があったと思っています。一つの意見に対して別の意見が返ってきて、そこからさらに考えを説明する機会が生まれた。そして、その結果として、今回のように一つの記事として残すこともできました。


社会を変えるというのは、大きなことだけではないのかもしれません。誰か一人と意見が違ったとき、その人を敵にするのではなく、「なぜそう考えるのだろう」と一度考えてみる。そして自分の考えも、もう一度見直してみる。そうした小さな積み重ねが、少しずつ社会の雰囲気を変えていくのではないでしょうか。


私自身も、まだまだ勉強中です。これからも間違えることはあると思います。しかし、異なる意見を避けるのではなく、できる限り耳を傾け、調べ、考え、そして自分の言葉で伝えていきたいと思っています。


一人でも多くの人が、自分とは違う意見を「敵」ではなく、「考えるきっかけ」として受け止められるようになれば、社会は少しずつ変わっていくのではないでしょうか。


そのための小さな一歩として、今回のやり取りを記録しました。


異なる意見を持つことも、民主主義です。


株式会社 PUTZ Network プツ・ネットワーク
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