永住制度は「厳格化」ではなく「取得困難化」へ
- 川西ケンジ

- 2 時間前
- 読了時間: 16分

外国人に求める前に、日本は条件を整えているのか
2026年7月25日付の朝日新聞(朝刊)は、出入国在留管理庁が永住許可ガイドラインの改定案をまとめたと報じた。記事によれば、今回の見直しでは、永住許可の要件として経済的な安定性に関する基準がこれまで以上に厳しくなるだけでなく、日本語能力や日本社会・制度への理解、さらには学齢期の子どもの就学状況なども総合的な評価対象として位置付けられる方向で検討されているという。また、永住者や日本人の配偶者に対する特例についても見直しが行われる方針であり、今後パブリックコメントを経て正式なガイドラインが策定される見込みとされている。
特に今回、多くの人が注目したのは経済的要件である。朝日新聞によれば、従来のように「安定した生活を送ることができるか」という考え方だけではなく、日本人世帯の平均を上回る年収を有していることに加え、その収入水準で厚生年金に30年間加入した場合に見込まれる年金受給額に達することを原則として求める方向性が示されているという。また、その不足分については預貯金などによって補うことも評価対象になると報じられている。
もちろん、まだ正式決定された制度ではない。今後の議論やパブリックコメントによって内容が修正される可能性はある。しかし近年の在留制度を見れば、政府が示した方向性が大きく覆された例は、私の知る限りほとんどない。在留資格に関する手数料の引き上げも、在留資格や永住許可のガイドライン見直しも、最終的には政府が示した方向性に沿って制度化されてきた。その経緯を踏まえれば、今回の改定案についても、大幅な修正が行われるとは考えにくく、基本的には現在示されている内容に沿って正式決定される可能性が高いと見ている。
しかし、この報道を読んだとき、私は今年4月に公開した記事「外国人が『罠』にはめられたのかも」で書いた内容を思い出した。
当時、私は次のように書いた。「問題は、安定が必要かどうかではない。今の日本の仕組みの中で、その安定は本当に実現可能なのかという点にある。」
その時点では、あくまでも日本社会全体の流れや制度改正の方向性を見ながら抱いた危機感を書いたに過ぎなかった。しかし、今回報じられたガイドライン改定案を見る限り、その懸念は決して杞憂ではなかったようにも感じられる。
私は、永住制度の厳格化そのものに反対しているわけではない。税金を納めない、年金を長期間滞納する、社会保険料を支払わない、あるいは法令を守らない。そのようなケースについては、より厳格な審査や、場合によっては永住資格の取消しを含めた対応が検討されてもおかしくないと考えている。永住資格は責任を伴う在留資格であり、社会のルールを守ることは当然求められるべきだからである。
しかし、今回の報道を読んで感じたのは、「厳格化」という言葉だけでは説明しきれない変化が起きようとしているのではないかということである。むしろ私には、「厳格化」というよりも、「取得困難化」という表現の方が実態に近いようにも思えてならない。
私が最も疑問に感じたのは、「どこまで条件を厳しくするのか」ではない。「その条件を、日本という社会は本当に実現できる環境として提供しているのか」という点である。
国が一定以上の収入を求めること自体は理解できる。将来にわたって安定した生活を送り、日本社会の一員として自立した生活を営むことは、永住者にとって重要な要素である。しかし、その一方で、国自身が外国人に対して、その安定を実現できる雇用環境や社会環境を十分に整備してきたのかと問われれば、私は大きな疑問を感じる。
私が前回の記事でも書いたように、かつての日本では、外国人労働者は長時間働くことによって収入を維持することができた。決して理想的な労働環境ではなかったが、努力すれば生活を安定させることは十分に可能だった。しかし現在はどうだろうか。働き方改革によって残業時間には上限が設けられ、派遣労働や非正規雇用は依然として多く、物価は上昇し続け、実質賃金も十分に伸びていない。生活費は年々増加する一方で、収入を増やす手段は以前よりも限られている。
つまり、少なくとも多くの外国人労働者が努力不足だから問題が生じている、という単純な話ではない。努力だけでは乗り越えられない構造へと、日本社会そのものが変化しているのである。
そのような状況の中で、「もっと収入を増やしてください」「将来十分な年金を受け取れるようにしてください」「預貯金も確保してください」と求めるのであれば、その前に国自身が確認すべきことがあるのではないだろうか。それは、日本の雇用制度や経済環境、そして現在の社会制度が、その目標を現実的に達成できるものになっているのかということである。
私はここに、制度設計としての一貫性を感じることができない。
例えば、今回の報道では、預貯金によって不足分を補うという考え方も示されている。しかし、その考え方だけで外国人の経済的貢献を評価することは、本当に適切なのだろうか。
預貯金が多いことは、一つの安心材料にはなる。しかし一方で、日本国内で住宅を購入し、自動車を購入し、家電を買い替え、子どもの教育にお金を使い、地域で消費を続けている外国人も数多く存在する。そのような支出は、本人の預貯金を減らすことにはなるが、そのお金は日本国内で循環し、日本経済を支えていることも事実である。
もし評価基準が「どれだけ預貯金を持っているか」に偏り過ぎれば、日本国内で積極的に消費し、地域経済に貢献している人ほど不利になるという、逆転した結果を生む可能性も否定できない。
もちろん、私は「預貯金を評価するべきではない」と言いたいわけではない。しかし、「預貯金だけでは測れない経済的貢献」もまた存在するという視点は、制度を設計する上で決して軽視されるべきではないと考えている。
さらに気になるのは、このような経済的要件が議論されている一方で、在留資格に関する各種手数料についても大幅な引き上げが予定されていることである。外国人には、より高い経済力を求めながら、同時に制度上の負担も増やしていく。この二つが同時に進められるのであれば、「資産形成を求める制度」と「資産を減らす制度」が並行して存在することになる。
この制度設計は、本当に整合性が取れていると言えるのだろうか。
今回の改定案の中で、私が特に気になったのは、「日本人世帯の平均を上回る収入水準で30年間厚生年金に加入した場合に見込まれる年金受給額」が、一つの目安として示されていることである。
この基準を満たすためには、大きく分けて二つの方法が考えられる。一つは、日本人世帯の平均を大きく上回る高い収入を得ることによって、比較的短い加入期間でも十分な年金受給見込み額に到達することである。もう一つは、収入が平均に届かない、あるいは平均に近い場合、不足する分を長期間にわたる厚生年金への加入によって積み重ねることである。
しかし、日本で暮らす外国人の就労実態を考えると、前者を実現できるのは高度専門職や高度人材など、一部の高所得層に限られる可能性が高い。現在、日本には高い専門性を生かして高収入を得ている外国人もいるが、その一方で、多くの外国人は製造業、建設業、介護、食品加工、物流、農業など、日本社会の人手不足を支える現場で働いている。これらの仕事は日本社会にとって欠かすことのできない重要な仕事である一方、決して高所得者が多い職種とは言えない。
さらに、日本人世帯の平均年収という基準自体にも注意が必要である。平均値には高所得者の収入も含まれるため、一般的な現場で働く労働者の収入より高い水準になりやすい。つまり、日本の労働力不足を支えている多くの外国人労働者は、現実の就労構造上、この基準に到達しにくい立場に置かれている可能性がある。
さらに、この基準を考える上で見落としてはならないのが、来日時の年齢である。外国人は20代前半で来日する人ばかりではない。30代、40代になってから日本で働き始める人も少なくない。仮に高収入によって短期間で基準を満たすことが難しいのであれば、現実的には長期間にわたって厚生年金を積み重ねる以外の方法は限られてくる。しかし、40代以降に来日した人にとって、その条件は本当に現実的と言えるのだろうか。どれだけ真面目に働き、税金や社会保険料を納め続けたとしても、来日した年齢そのものが結果を左右してしまうのであれば、それは努力だけでは乗り越えられない条件になってしまう可能性がある。
そして、この問題をさらに複雑にしているのが、日本の雇用制度が歩んできた歴史である。
日本で20年以上、あるいは30年近く生活している外国人の多くは、1990年代後半から2000年代にかけて来日した世代である。私自身もその一人である。
当時、多くの外国人は派遣会社や請負会社を通じて働いていた。しかし、その頃は社会保険制度の運用が現在ほど徹底されていたとは言い難く、法律上は加入義務があったにもかかわらず、厚生年金や社会保険へ適正に加入していない企業も決して少なくなかった。
この問題が社会全体に強く認識されるようになったのは、2008年のリーマン・ショックと、それに伴う「派遣切り」が社会問題となった頃である。当時、多くの派遣労働者や請負労働者が職を失ったものの、雇用保険に加入していなかったため、本来であれば受けられるはずの失業給付を受給できないという深刻な問題が全国で発生した。
その事態を受け、政府は緊急的な対応として、受給資格を満たすために必要最低限な期間まで(6ヶ月)遡って企業に雇用保険料を納付させ、多くの労働者が失業給付を受けられるよう救済措置を講じた。本来加入すべきであった全期間について遡及納付を求めたわけではなく、危機的な状況の中で現実的な対応を優先したものだった。この出来事は、当時の制度運用が必ずしも十分ではなかったことを示す一つの事例でもあったと言える。
もちろん、本来であれば企業は法令を遵守し、行政も適切な指導・監督を行うべきであった。しかし現実には、その運用は十分とは言えず、多くの外国人は制度そのものを十分理解しないまま働いていた。日本語で制度について説明を受ける機会も限られ、自ら加入を求めることさえ容易ではなかった時代である。
私自身の経験や、当時同じような状況に置かれていた外国人労働者から聞いた話を踏まえると、社会保険への適正加入が広く定着し始めたのは2010年前後からだという認識を持つ人も少なくない。私自身も、その頃になって初めて厚生年金へ適切に加入するようになった一人である。
だからこそ、今回の基準について私が疑問に感じるのは、新たな条件そのものではない。その条件が、過去の制度運用や社会的背景を十分考慮した上で設計されているのかという点である。
過去には、本人の意思とは関係なく、企業側の運用や行政の監督不足によって厚生年金へ十分加入できなかった人が存在した。そのような時代を実際に経験してきた世代まで含めて、現在の基準だけで評価することが本当に公平なのだろうか。
私は、新たな基準を設けること自体を否定するつもりはない。しかし、その基準が過去の制度運用や雇用実態を十分考慮しないまま適用されるのであれば、その結果は本人の努力だけでは説明できないものになってしまう。
さらに、今回の改定案では、経済的な要件だけでなく、日本語能力や日本の制度・ルールに関する理解についても考慮要素とする方向性が示されている。
日本語能力や日本の制度・法律・社会への理解を重視するという考え方そのものには賛成である。日本で生活していく以上、日本語を学び、日本の法律や社会制度、生活ルールや地域文化を理解しようと努力することは、外国人にとっても、日本社会にとっても極めて重要である。
しかし、ここでも私は、経済的要件と同様の矛盾を感じている。
日本語を習得するためには、当然ながら時間が必要である。もちろん個人差はあるものの、高い日本語能力を身につけるには、継続的な学習を積み重ねなければならない。また、日本の制度や法律、地域社会のルールについて理解を深めることも、一朝一夕にできることではない。
一方で、多くの外国人は、日本で生活するために働かなければならない。長時間働けば学習時間は減り、学習時間を確保すれば、その分だけ収入を得る機会は少なくなる。
もちろん、日本語学校や家庭教師などを利用すれば、より効率的に学ぶことは可能である。しかし、そのためには新たな費用が必要となる。つまり、時間を使えば収入が減り、お金を使えば貯蓄が減ることになる。
今回の改定案では、高い収入、十分な資産形成、日本語能力、日本社会への理解など、複数の要素を総合的に求める方向性が示されている。しかし現実には、それぞれの条件を満たすために必要となる時間や資金は限られており、一つを満たそうとすれば別の条件を満たしにくくなるという側面も存在する。
だからこそ私は、外国人へ新たな条件を求めるのであれば、その条件同士が互いに矛盾しない制度設計になっているのかについても、十分な検証が必要ではないかと考えている。
もちろん、だからといって、日本語能力や日本社会への理解を評価すべきではないと言いたいわけではない。むしろ私は、その重要性を強く認識しているからこそ、それらを「義務」として課すだけではなく、「努力した人が正当に評価される仕組み」として制度設計すべきだと考えている。
例えば、日本語能力試験(JLPT)など既存の制度を活用し、日本語能力の向上に応じて段階的な優遇措置を設けることや、日本の法律や制度、地域社会のルールなどに関する理解を深めた人が適切に評価される仕組みを整備することは、日本社会への定着を促進するとともに、行政コストの削減や地域社会との共生にもつながる可能性がある。
外国人に努力だけを求めるのではなく、その努力が制度上も正当に評価される環境を整えることこそが、本当の意味で社会統合を進める制度ではないだろうか。
なお、この点については、私は今回のパブリックコメントにおいて、財源確保、日本語能力の向上、日本社会への理解促進及び地域社会との共生を一体的に実現する制度案を提案している。本記事では概要のみを紹介するが、提出したパブリックコメントの全文は、以下の記事に掲載している。より詳しい制度設計や具体的な提案内容については、そちらをご参照いただきたい。
外国人により高い条件を求めるのであれば、その前に国自身が、その条件が現在の雇用環境や賃金構造、そしてこれまでの制度運用を踏まえた上で、本当に現実的に到達可能なものなのかを検証する責任があるのではないだろうか。制度とは、人を評価するためだけに存在するものではない。その制度によって求められる条件を、誰もが現実的な努力によって目指すことができる環境を整えることもまた、制度を設計する側の責任なのである。
おわりに
日本の外国人政策を振り返ると、この数年間で実に多くの制度改正が行われてきた。その出発点で繰り返し説明されていたのは、「悪質な外国人への対策」である。不法滞在者、税金や社会保険料を納めない者、在留制度を悪用する者、日本の安全保障上重要な土地の取得、投機目的による不動産価格の高騰など、日本社会が抱える様々な課題に対応するための制度改正であると説明されてきた。そして、「ルールを守る外国人は歓迎し、日本社会に必要な存在である」という考え方も、政府は繰り返し示してきた。
だからこそ、多くの外国人は当初、それほど大きな不安を感じていなかったのである。むしろ、日本で真面目に働き、税金を納め、社会保険料を支払い、法律を守って生活してきた外国人ほど、「ルールを守らない人に対して制度を厳しくすること」には理解を示していた。それは、自分たちが守っているルールを守らない人が何の責任も負わないことの方が不公平だと感じていたからである。
しかし、制度改正が積み重ねられていくにつれ、少しずつ違和感が生まれ始めた。在留資格更新手数料の大幅な引き上げは、真面目に在留資格を維持している外国人ほど負担する制度である。永住許可申請手数料の引き上げも、永住許可を申請できる段階まで条件を満たしてきた人が負担する制度である。そして今回議論されている永住許可ガイドラインの見直しも、対象となるのは、日本で長年生活し、永住を目指して努力してきた人たちである。
気づけば、「悪質な外国人対策」として始まったはずの制度改正は、その影響が、むしろ日本社会で真面目に生活している外国人へも広く及ぶものへと変わりつつあるように見える。私には、その変化が非常に気になっている。
私が今年4月に書いた記事のタイトルは、「外国人が『罠』にはめられたのかも」であった。
あの時は、まだ「かもしれない」という仮説だった。しかし、その後も制度改正が続き、在留資格手数料の大幅な引き上げが進み、更新ガイドラインが見直され、そして今、永住許可制度についても新たな条件が次々と示されている現状を見ると、私は「あれは本当に『かもしれない』だったのだろうか」と考えずにはいられない。
最初は安心だった。「対象は悪質な外国人なのだから、自分たちには関係ない。」そう考えていた外国人は決して少なくなかった。
しかし、その安心は驚きへ変わった。驚きは不安へ変わった。不安は恐怖へ変わった。
そして、このまま制度改正が続けば、その恐怖はいずれ諦めや失望へ変わるかもしれない。
「努力しても報われない。」「この国では将来が見えない。」そう感じた人から、日本を離れていくようになれば、日本が失うものは決して小さくない。
日本は今、人手不足という大きな課題に直面している。だからこそ、本当に必要なのは、外国人に条件を課す制度だけではない。その条件を満たせる社会をつくり、その努力が正当に報われる制度を築くことではないだろうか。
私は、外国人に責任を求めることに反対しているのではない。責任を求めるのであれば、その責任を果たせる環境を整えることもまた、国の責任である。そして、その二つがそろって初めて、「ルールを守る外国人を歓迎する」という言葉は、本当の意味を持つのではないだろうか。
私は個人的に、「飴と鞭」という考え方そのものを否定するつもりはない。むしろ、人の行動を望ましい方向へ導く手法としては、非常に合理的な側面もあると思っている。もちろん、人の行動を変える方法はそれだけではなく、心理学の分野でも様々な考え方が存在することは承知している。しかし、「努力した人には利益があり、ルールを守らない人には相応の責任を求める」という考え方自体には、私は一定の合理性を感じている。
だからこそ、一連の外国人政策が始まった当初、私は日本もそのような「飴と鞭」の考え方へ向かっているのだと思っていた。ルールを守る外国人には安心という「飴」があり、ルールを守らない者には厳格な対応という「鞭」がある。その結果として、長年解決されなかった様々な課題が少しずつ改善されていくのではないかと、大きな期待も抱いていた。
いつの日か、誰かが「飴と鞭ではなく、鞭と鞭だった日本の外国人政策」という本を書く日が来るのかもしれない。その評価は、これから日本がどのような結果を生み出すのかを見届けた後で、初めて下されることになる。




コメント